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八王子城

概要

城名:八王子城(はちおうじじょう)
城郭構造:山城
築城者:北条氏照
天守閣構造:無し
所在地:所在地

歴史

関東一円を支配した後北条氏が 甲斐から武蔵への入口を守る城として築いたのが、この八王子城である。

後北条氏は一族の者を各地の有力者のもとへ婿として送り込み、 実質的にその家を乗っ取るという手法を多用していたが、 武蔵国守護代大石氏のもとへは北条氏康の三男・氏照が送り込まれ、 大石定久(1491年-1549年)の娘・比佐の婿養子となった。
当時八王子城はまだなく滝山城が居城であったが、永禄12年(1569年)武田信玄の侵攻を受けると、 落城寸前まで攻めこまれ辛くも撃退したものの、 滝山城の防衛力に限界を感じた氏照は、八王子城の築城にとりかかる。

天正18年(1590年)秀吉の小田原征伐の際は、上杉景勝・前田利家・真田昌幸ら15,000人に攻められ、 迎え撃つ北条側は領地の農民等を動員し3,000人で迎え撃ったが、わずか1日で落城した。
城主・氏照は小田原城へ詰めており、不在だった。

年表

  • 元亀2年(1571年)、北条氏照によって築かれる。
  • 天正15年(1587年)、滝山城より本拠地を八王子城へ移す。
  • 天正18年(1590年)7月24日、豊臣方(上杉景勝・前田利家・真田昌幸)15,000人に包囲される。
    狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀、横地監物ら家臣を筆頭に、領民合わせて約3,000人が籠城するが、 わずか1日で落城。
    氏照の正室・比佐は自刃、横地監物は檜原村へ落ち延びたものの後に切腹。
  • 同年、北条氏滅亡後、新たな領主となった徳川家康によって廃城となる。

城郭全体図

全体模型
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地図
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御霊谷地区(ごれいやちく)

太鼓曲輪から北東に延びる丘陵上の東端と、 その南側の台地に位置する。 試掘調査により、八王子城の南側の備えとして防御用の施設の存在が確認されている。

根小屋地区(ねごやちく)

家臣の屋敷や寺院などの存在が予想されるが、 調査範囲が狭いことや落城以降の開発の跡もあり、 現時点で区割状の遺構、掘立柱 建物跡、井戸などが確認されているのみ。

古道
戦国時代に御主殿へ入る大手道として使われ、 当時はさらに下流のほうへと続いていた。 御主殿側の道は江戸時代に作られたもの。
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居館地区(きょかんちく)

城山川沿いの山麓に御主殿跡と、 その東側にアシダ曲輪などの曲輪群が残る。 御主殿跡は城主である北条氏照の居館跡とされ、 アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡と考えられている。
平成4~5年(1992~1993)にかけて行われた御主殿跡の調査では、 大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見され、 庭園があったこともわかった。

曳橋

古道から御主殿へ渡るために城山川に架けられた橋。 橋の土台である橋台部が残っていただけで、 どのような構造の橋かは不明だが、 戦のときは敵の侵入を防ぐため、 簡単にはずすことが出来る構造であったと考えられている。 現在架かっている橋は当時の道筋を再現するため、 現代の技術で戦国時代当時の雰囲気を考えて再現したもの。

曳橋
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周囲を土塁で囲まれた幅約5mの通路をとおり、 石段を登ると枡形の虎ロとなる。 現在の石段や階段の石畳は、 昭和62年(1987)に行われた発掘調査時に発見された400年前のものをなるベくそのまま利用し、 破損箇所は当時の技法で復元したもの。

全体写真
※撮影方法の関係でかなり歪んで見えています。
 実際は写真中央の曲がり角はほぼ直角に曲がっています。
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石段
踏面約1m、蹴上約36cm、幅が約5mとなっている。
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冠木門
御主殿入口の門。復元。
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御主殿跡

落城後は徳川幕府の直轄の御林、明治以降は国有林であったため あまり人の手が入らず、遺構の状態は良好であった。
平成4年~5年(1992~1993)にかけて行われた発掘調査では、 城主北条氏照が執務を行ったと考えられる大規模な礎石建物跡をはじめ、 敷石の溝や石畳などの遺構や、枯山水(かれさんすい)の庭園と思われる遺構が発見された。
中国の磁器類の破片や国産の陶器類、鉄砲の弾をはじめとする武器・武具類などが見つかった。 なかには、当時の武将に好まれた茶道具や、当時極めて珍しかったと思われるベネチア産のレースガラス器の破片なども含まれてい る。
遺構の 確認された範囲は2900平方メートルに及ぶ。

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御主殿の滝

天正18年(1590)6月23日の八王子城の落城時には、 城方の婦女子らが滝の上で自刃し、次々と身を投じたと伝えられ、 その血で城山川の水は三日 三晩赤く染まったという。

アシダ曲輪

有力な家臣の屋敷があったと考えられている。

要害地区(ようがいちく)

要害地区は、急な斜面で守られた山頂から尾根の上に造られていおり、 山頂付近には本丸・ 松木・小宮などの各曲輪群があり、西側には詰めの城と呼ばれる曲輪が残っている。
合戦のときに籠城して戦うところで、兵糧を入れる倉庫などが建てられていたと思われる。 現在でも2ヶ所に当時の井戸が残されている。

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金子曲輪

金子三郎右衛門家重が守備していた曲輪。金子丸ともいう。
尾根をひな壇状に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫がされていた。

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金子曲輪からの眺望
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小宮曲輪

別名:三の曲輪、一庵曲輪
狩野ー庵(かのういちあん)が守備していた。 上杉景勝軍の奇襲により落とされた。
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松木曲輪

別名:中の丸、二の丸
近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。
中山勘解由家範(なかやまかげゆいえのり)が守備していた。
6月23日に前田利家軍相手に奮戦し、このときの家範の勇猛ぶりが徳川家康の耳に入り、 その遺児が取り立てられ、後に水戸徳川家の家老になった。

詰の城へ続く道
ほとんど整備されておらず、進むのは困難。 IMG_0086

延喜13年(913)に深沢山のふもと、 華厳ヶ谷(けいがやつ)に庵を結んだ華厳菩薩妙行(けごんぼさつみょうこう)が山頂で修行中、 牛頭天王と八人の王子が出現した。 その因縁によって、延喜16年(916)に八王子権現を祀り、 山麓には宗関寺(そうかんじ)の前身となる神護等(じんごじ)を建立したといわれている。
北条氏照は八王子城の築城にあたり、 この伝説に基づいて八王子権現を城の守護神とした。 また「八王子」の地名の起源とも言われている。

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本丸

横地監物吉信(よこちけんもつよしのぶ)が守備してた。
あまり広くないため、大きな建物はなかったと考えられている。

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本丸跡に建つ祠
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交通・アクセス

JR高尾駅北口より下記のバスが運行されている。

  • 霊園01系統:高尾の森わくわくビレッジ行き(他複数のバスあり)「霊園前・八王子城跡入口」下車徒歩約15分
    (1時間に3本程度)
  • 城01系統:[西東京]八王子城行き「八王子城跡」下車すぐ
    ※土日のみ運行(1時間に1本程度)
京王バス・西東京バス検索ホームページ

100名城スタンプ設置場所

上記「八王子城跡」バス停近くにある八王子城ガイダンス施設内

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