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米子城

概要

2つの天守があった山陰地方の要衝。

城名:米子城(よなごじょう)
城郭構造:梯郭式平山城
築城者:不明
天守閣構造:独立式望楼型4重5階(現存しない)
所在地:地図

歴史

  • 15世紀後半(応仁年間)、山名宗之が飯山に砦を築いたのが始まりとされる。
  • 大永4年(1524年)、尼子経久の支配下となる。
  • 永禄5年(1562年)頃、毛利氏に制圧される。
  • 天正19年(1591年)、吉川広家が築城を開始するが、関ヶ原の戦いの後、岩国に転封となる。
  • 慶長7年(1602年)、伯耆国領主の中村一忠が尾高城から米子城へ居城を移す。米子城が完成したのはこの頃といわれる。
  • 慶長14年(1609年)、一忠が急死し中村氏は断絶、かわって加藤貞泰が入る。
  • 元和3年(1617年)、加藤氏の伊予大洲への国替えにより米子藩は廃藩となる。伯耆・因幡は鳥取藩の所領となり、因伯領主・池田光政の家老・池田由之が城代として3万2千石を治める。
  • 寛永9年(1632年)には、池田光政の国替えにより池田光仲が因伯領主となり、家老の荒尾成利が城代となる。以後明治維新まで荒尾氏が治める。

全体図

城郭全体図(現地案内板)


城郭全体図(古地図)


枡形

入り口を二重にして門への見通しを防ぐために作られた広場で、城主の行幸や武士を集めるときの集合場所に使われた。
東西25.44m 南北22.72m

旧小原家長屋門

江戸時代中期の建築で、木造瓦葺入母屋造りの平屋建て。
床面積はおよそ84平方メールm大扉の向かって右側に一室、左側に二室あって、その上は一部低い中二階になっている。

小原氏は米子荒尾家の家臣で、禄高120石であった。
この長屋門は市内西町の小原家にあったが、昭和28年に米子市に寄贈され、現在の場所に移築された。



上り道の先で本丸と内膳丸の二手に分かれる。

内膳丸

丸山とも呼ばれ高さ52mある。中村時代の家老・横田内膳正村詮が担当したため、内膳丸と呼ばれる。
二重櫓数棟の武器庫が設けられていた。

内膳丸へ続く階段


内膳丸




番所跡

天守一帯を警備する役人詰め所で昼夜見張り番が詰めていた。
7.27m四方の広さがある。



鉄御門跡

天守入口を守る鉄張りの堅固な二階建ての門があったところ。
間口12.72m、奥行4.5m。



水手御門跡



遠見櫓跡

7.27m×9.09mの平屋櫓と、3.63m四方の二重櫓が建てられていた。
別名:着見櫓



古井戸



本丸

天守は現存しないが、中村一忠が建てたもので独立式望楼型4重5階、明治まで残っていた。高さは20m以上あったといわれている。
その前に吉川広家が建てた初代天守があり、上述の天守が建てられた後は、四重櫓と呼ばれた。古天守・副天守と呼ばれることもある。

天守台と古天守台


天守台石垣




本丸への道


本丸






本丸からの景観




交通・アクセス

【電車】
JR山陰本線・米子駅より徒歩約15分

【車】
湊山公園無料駐車場を利用できる。駐車場は城を挟んで駅と反対側(搦手側)にある。

[参考資料]
日本城郭事典
現地案内板

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