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大多喜城

概要

本多忠勝の居城となった、房総半島南部の城。

城名:大多喜城(おおたきじょう)
城郭構造:連郭式平山城
築城者:真里谷信清
天守閣構造:層塔型3重4階模擬
所在地:地図

歴史

  • 大永元年(1521年)に真里谷信清によって築かれたとされる。当時は小田喜(おたき)城と呼ばれていた。
  • 天文年間(1532~1555年)に里見氏の重臣・正木氏が入り、4代にわたって居城とする。
  • 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅ぶと徳川家康が関東へ入り、家康は里見氏の抑えとして本多忠勝をこの地を与える。
    忠勝は天守を含む城郭の改築、城下町の整備を行なった。
  • 元和5年(1619年)藩主阿部正次の転封により大多喜藩は一旦廃藩となる。
  • 青山・阿部・稲垣氏と移り変わった後、元禄16年(1703年)、松平正久が入城し、以後松平氏が幕末まで続く。
  • 天保13年(1842年)、天守が焼失。
  • 昭和50年(1975年)、模擬天守が復元される。

全体図

城郭全体図

二ノ丸

天守閣

天守外観


天守石垣
野面積みと打込ハギの中間の方法で造られている
(※現地案内板の説明文より)

大井戸

城内に二十数個あった井戸の一つ。
初代城主・本多忠勝の時代に掘られたと言われ、 周囲約17m、深さ約20m。
尽きることなく湧き出ることから「底知らずの井戸」と呼ばれていた。
(現地案内板より)

中央の鉄柵で囲まれたところが井戸


駐車場付近

大多喜水道
最後の城主・松平(大河内)正質(おおこうちまさただ)の時代に計画され、 明治2年(1869年)11月に工事が開始、明治3年5月に完成。
全長5.8km(うち4kmはトンネル)、2km西の水流を水源としている。
(現地案内板より)

トンネル入口


トンネル内部

大多喜城再築の際に発掘された石垣の石を祀った社

交通・アクセス

いすみ鉄道いすみ線大多喜駅より徒歩約20分

車の場合、無料の駐車場有り。

天守(博物館)入館料:大人300円
刀剣、具足、城郭全体模型等の展示の他、兜・陣羽織(レプリカ)を着用しての記念撮影(無料)も可能。

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